2014年1月21日 「隠喩としての建築」色鉛筆解読作業
1月10日のブログで書いた色鉛筆を使用しての読書を難解と言われている柄谷行人さんの哲学書「隠喩としての建築」でやってみた。
12色の色鉛筆は持ち替えるのに時間がかかるため、4色ボールペンとマーカーを使用した。
以下は自分が気になってマーカーで塗ったところだ。
- 二十世紀の文学や芸術の変化(抽象絵画、十二音階の音楽)は互いに平行し関連しあっているだけでなく、物理学、数学、論理学の変化にも対応している。
- 科学は事実・データからの帰納や「発見」によるものではなく、「仮説」にもとづく「発明」である。
- ヒルベルトの「形式主義」の新しさは、数学は正しければ「真」でなくてもよいとしたことである。「正しさ」とは無矛盾性である。
- 自己言及的なシステムにおいては、最終的な超越または外部はありえない。
- 「形式主義」の破綻がわれわれをレトリック(弁論術)につきもどす。
- コミュニケーションに関する理論は「ゲーデル的問題」につきまとわれており、またそこからはじめるほかないのである。
解読対象は120ページのうち20ページほどだが、柄谷行人さんがゲーデル的問題や形式化の破綻について問題提起をし、その後の著書、「内省と遡行」ではこの問題をソシュールの言語学、数学者かせ出発したフッサールの哲学、マルクスの経済学からデリダの脱構築までに適用して考えている、つまり同じテーマなんだという関連もはっきりしてすっきりした気分になった。
柄谷さんの説はあまりに厳密すぎて少し間違えると「我々はいくら学問しても自己言及のパラドックスから逃れられず、堂々巡りしているだけ」という元も子もない結論に帰結してしまいそうだが柄谷さんが20世紀以降の学問、芸術をどう捉え、どう総括しているのか、次回は「形式化の諸問題」と「内省と遡行」の解読を通して元も子もなくない出口を探してみたい。