2013年11月6日 書き換えによる習作
芥川龍之介の「或阿呆の一生」を書き直すことで文章を訓練してみようと思いました。
まずは芥川龍之介のオリジナル
或阿呆の一生
僕はこの原稿を発表する可否は勿論、発表する時や機関も君に一任したいと思つてゐる。
君はこの原稿の中に出て来る大抵の人物を知つてゐるだらう。しかし僕は発表するとしても、インデキスをつけずに貰ひたいと思つてゐる。
僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしてゐる。しかし不思議にも後悔してゐない。唯僕の如き悪夫、悪子、悪親を持つたものたちを如何いかにも気の毒に感じてゐる。ではさやうなら。僕はこの原稿の中では少くとも意識的には自己弁護をしなかつたつもりだ。
最後に僕のこの原稿を特に君に托するのは君の恐らくは誰よりも僕を知つてゐると思ふからだ。(都会人と云ふ僕の皮を剥はぎさへすれば)どうかこの原稿の中に僕の阿呆さ加減を笑つてくれ給へ。
昭和二年六月二十日
久米正雄君
僕が書き換えたのがこちら
或変わり者の一生
桂山正晴
僕はこの詩とも独り言とも言えない言葉たちをブログに載せ、僕の知り合いのうち僕に関心を持ってくれる人、そして未来のまだ見ぬ君に読んで欲しいと思っている。
君はこの文章に出てくる大抵の人達を知らないだろう。皆、実在する人物だが僕は誰が誰だかわからないようにしたつもりだ。
僕は今最も不安定な安定さの中に暮らしている。しかし不思議とまだ見ぬ未来にわくわくとしている。
唯僕のごとき子供のような親、成人してから手のかかる子供、大人の会話のできない夫を持つ者達には申し訳ないという気持ちとこれしかできなかったんだという開き直りが混在している。
ではさようなら。僕はこの文章の中では少なくとも自分の気持や他人からの批判を脚色したり美化したりはしなかったつもりだ。
最後に僕がこの文章をブログに載せるのはもしかしたら後世の誰かが僕に共感を持ってくれるかもしれないと思うからだ。(会社員、そして家族という僕の皮を剥ぎさへすれば)どうかこの文章の中に僕の変わり者さ加減を笑ってくれたまえ。
平成25年12月6日
桂山正晴
まだ見ぬ君へ
つづく