2013年11月4日 公園を散歩のつづきと 日常、非日常

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「君は自分が読みたいから書くというが僕の場合は違うな。僕は誰かに自分のことを伝えたいから書く。」

 君といると僕はつい自動小銃みたく言葉を連射してしまう。会社にいるとあまり話さず、静かな方なのだが大学時代の友人の君といると大学生の頃の僕がが蘇るのかもしれない。

 「ブログを書いてネットに載せるとまるで全世界の人に発信している気になるけど、実際は誰の目にも触れない。陸の孤島にいるようなものさ。」

 「僕は文章を書いて伝えるより、直接人と接したり関わることで与える影響の方が大きいしその方が人に何かを伝えているような気がした時期があった。」

 「だけど今はまた文章を書いて不特定多数に発信したい気持ちになっている。」

 僕は20代の頃、書きかけて挫折した長編小説を再び書き始めようとしていた。

 

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なんでも突き詰めていくと物事の本質はついには自らを破壊してしまう。

 僕らの世界はそんなに厳しい基準で成り立っていない。車を運転する時に相対性理論が不要でニュートン力学で十分なように、僕らの日常生活にウィトゲンシュタインのような厳密な理論を持ちだしたら全ての意味が崩壊してしまう。

 ただ僕らは毎日、朝起きて朝食を食べ、電車に揺られて職場や学校に行き、同僚や友人とランチを食べ、家に帰って家族と夕食を食べ、テレビを観て寝ているというだけの生活をしているのではない。

 自転車に乗っている時もシャワーに打たれている時も僕らの脳みその中では何百億というシナプスがいろんな感情を受容している。

 そして真面目と不真面目、仕事と遊び、規則と違反、上昇と下降など相反する感情の中で僕らはこの資本主義社会の中では前者ばかりを重要視するが、実は人間の本質は無意識、つまり普段スポットが当たらない部分が原動力になっている気がする。

 非日常の世界に興味があるのは、そういった無意識の欲望こそが自分を解放できるかもしれないと思うからだ。

 そしてそれは本や言葉を通してではなく肌や感覚で感じるものの方がより強い気がする。